最近の「ありのままの自分で良い」という言葉は効果的に人をダメにしている気がして
プロファイリングと交流分析を使った「生き辛さの解消」や「相性・人間関係のモヤモヤ解消」のサポートを行っています。
JCPA認定子育てコミュニケーション心理士。
関西の諸大学にて英語講師業、身体も心もほぐす足圧ボディケアも行っています。
昨今の「自分らしさ」という言葉に疑問を持っている。
「ありのままの自分で良いよ」
「自分らしく生きよう」
良い言葉だと思う。
確かにその通りだし、無理して生きる必要はないと思う。
でもなんだか最近の「自分らしく」という言葉は、ダメな現状から目を背ける為の免罪符になってない?
「生き方」というのは自分らしさがある上で、洗練されて行く努力や経験が重なって成り立つのではないか。
それが他人から見て良いものか悪いものかはどうでも良くて。
でも、自分自身が現状を打破したり理想に近付きたいと思っているのに「ありのままの自分で良いや」という言葉を盾に現状に甘んじているのはちょっと違うんじゃないか。
自分自身が「この辛い状況でも良いや」と諦めてしまっているのと同じではないか。
「自分らしさ」という言葉が”自分が否定したい現実を受け入れる免罪符”になってしまったら、人間は前に進めなくなってしまう。
プロファイリングでは確かに「本来の自分自身」と「現在の性格」を出すことが出来る。
それは元々持っている本来の「自分らしさ」である。
ただその自分らしさというのは、
「自分はこういう特性があって、良い所と苦手な所がある」
「でも自分には他の人には無いこういう所がある」
「だから大丈夫」
という、心理的安全性を持つためにあるのだと思う。
人間、幼い時は親の近くにいることで「心理的安全性」を持つことが出来た。
肌が触れ合って、手を繋がれて、声を掛けて貰えて、見守って貰えて。
大抵の場合、何か困った時はすぐに親が来てくれて助けてくれたハズだ。
ただ大人になると、どうだろうか?
特に今の日本人の10代〜30代はどうだろうか?
身体は大人になった。
年齢も、法律で定められた「成人」にはなった。
ただ、果たして「大人」なんだろうか?
人間関係や仕事や将来など常に不安にまみれてないか?
「ここは安心、大丈夫」なんて心が安心出来る居場所はあるんだろうか?
考えてみた。
そもそも他人や場所などの外部に安全性を期待するから、いつ崩れるかも分からない不安が出てきてしまうのでは、と。
運良く恋人やパートナーが居て、結婚して安心出来ている人は良いと思う。
素晴らしい。
でも生きる上で常に不安に苛まれる人は、心理的安全性を感じられる場所が少ないのではないだろうか。
職場や家庭、趣味の場所や行きつけの飲み屋。
「ここは自分が居て良い場所だ」
「ここはいつ行っても自分を受け入れて貰える空間だ」
そんな居場所があるほど、ある意味依存できる場所が多いほど人間は安心感を持てる。
ここで話を戻したい。
「自分らしさ」とは、ダラダラしててダメな自分でも大丈夫!オールオッケー!と言うための免罪符では無い。
「自分らしさ」は「私はこんな特性がある」「コレは自分が持っている個性であり魅力」。
だから大丈夫、と心理的安全性を持つためのものである。
「自分らしさ」+「成長や努力や変化」=「生き方」 である。
自分自身が心理的安全性になる。
「自分が自分で居る限り、大丈夫だ」と。
不安定な他人や職場やパートナーに命綱を渡すのではなく、自分で手綱を握る。
自分はこんな良い所がある、だから大丈夫。
その土台にあるのが「自分らしさ」だと思うんだ。
自己肯定感は他者からの承認が必要かもしれない。
しかし、この「自分らしさを知る(=自分自身の良い所を知る)」ことで自分は大丈夫だと確信することは他人の影響を受けない。
自分の中で心理的安全性を確保出来る。
魅力的な人間が持つ自信や行動力の源はこの「自分らしさ」なのだろう。
プロファイリングと交流分析を使った「生き辛さの解消」や「相性・人間関係のモヤモヤ解消」のサポートを行っています。
JCPA認定子育てコミュニケーション心理士。
関西の諸大学にて英語講師業、身体も心もほぐす足圧ボディケアも行っています。
日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。